Yuya Miki


風景にはその都度の刹那的な要素と持続的に続く構造的な要素がある。
前者にはその時々の雲の表情や光や風の様子が、後者には土地の起伏など地形的な要素が対応する。
勿論、いずれの事物も動いてはいる。
ただその動きは現象としての相同性はあるかもしれないが、異なるスケールの動き。


写真の驚くべきはその刹那的な要素と、構造的な要素を一瞬の内にいずれも等価に持続的なものへと変換してしまうこと。
写真において当たり前のように受け取られる、この複数の時間の別の時間への変換は実は驚くべきものなのかもしれない。
私の直接的な知覚ではそれを経験的には捉えることができず、
表象としてのみ事後的に捉えられるという点において写真はそのシステムがなければあり得なかっただろう時間をこちら側へ提出する。
あくまで経験的な世界の外部として。

遅れながら、広角でない50mmのレンズで、しかも浅い被写界震度で風景を捉えることの意味を次第に感覚しつつあるのかもしれない。
巨椋池干拓地を撮ることは、風景写真を鍛えること。
この土地と長く向き合ってきた画家の藤田さんが、この土地を通して自分自身は鍛えられたと言われるように。
フォームはモチーフと共に伸展する。

構造的な要素には巨椋池の地理的要因があり、短い時間にはそこに生きる人々や生き物の足跡がある。
写真/静止画においてはそれら二つが等価な時間として出会う。
私たちはこの時間に居合わせる。


日記(探訪記)、文献、災害記、制作論など複数の語りが次々に襲ってくるようなオーディオ=ヴィジュアル。
巨椋池という、単一的に捉えられかねないモチーフを如何に複数化するかという問題もまたあるのかもしれない。


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